名前が汚いから嫌だな

変容する便器の日常をお届け

のぞみ

テレビを見ていたら大学の時に一緒にお芝居をしていた同い年の人が出ていた。

大学の時に一緒に芝居してた時は演技クソだなー(演技のはずなのに自分を良く見せたい欲のみがダダ漏れだった)って思ってたし、周りも演技クソだなーって言ってたけど大学卒業したら売れてきてて、CMによく出るようになって、テレビドラマに出るようになって、映画にも出るようになってた。
当時から顔の良さと『売れたい』という根性は周りと比べて抜きに出てていて、映像で売れている先駆者に対する食い付きが凄かったしその通りになったな、と思う。

どんなに才能ある人でも「売れたい」とか「続けたい」ってずっと思ってないとそうはならない。
『芸術に奉仕したいけど別に売れなくていいや』みたいな考え方の人で、知っている人達はほんとにまだ一切売れてなくて、数年前とほぼ同じ環境にいる。才能あるのに。
そういう人達はずっとずっと続けてこれまでの活動が地層みたいに積み重なったものを見せていくしか評価されようがない。そして生活と天秤に掛けた時に土台の不安定さや、価値観の変化だったりで辞めていく。

才能というのは色々な形があって、耐えずそれを望み続ける事が残っていくのだと思う。

『続ける事』と『それを自分で信用する事』のふたつを両の手に抱えたら、他になんにも持てなくなってしまう。それでも色々な道を歩かなきゃいけなくて、他に何か持ちたいものが出来たり、あまりも道が厳しくて両の手のものを地面にぶちまけてしまって拾えなかった人にはもうその道は残されていない。

こういう冷笑的な考えを大学の時からずっと持っていたから就職したけど、社会の歯車として自分の人生が磨り減っていくのにも耐えれなくてフリーターになって無職になった。

無職歴1ヶ月だけれど心が鈍くなっている気がする。東京に居た時は他人に見せないように頑張っていたけれど喜びも悲しみもジグザグの双極の螺旋を描いて代わる代わる心の中を飛び回っていた。幸せかどうかならば今の方が幸せだと思う。痛みがほとんどない。傷付けるような他人に会わなくてもいい。風邪をひいても親が居るからさみしくない。
でも一体いつまで続くのだろう。うちは年の離れた姉がいるのもあって、当然親も僕の同年代の人達の親よりよりは1回り歳上。
あと20年も一緒に居れないかもしれない。
幸せとの「さようなら」を決めるなら今がいい。鈍くて幸せがむくんで飽和している今すべてと「さようなら」を決めてしまいたい。でもそれが何よりも罪深い事を知っているからそれは永遠に訪れない。私は自らの命を自らで断つ事はしない。という、『死にたくない』の6文字を引き伸ばしただけのクソオナニー丸出しの文章を携帯で打っていたら、既婚で子持ちのお兄さんから

【突然すいません。
もうむちゃくちゃに玩具にされたいす…平気なふりして日常過ごしてても本当はケツにチンボぶち込まれてアヘアヘ言いながら射精したいど変態です!!こんなLINEうちながらチンボおっ立ててすみません!
めちゃくちゃに快楽に溺れたいです!!】

という内容のLINEが来てやっぱ死のうかなって思った。